風の申し子-三合の理-


「この世に名づけられぬものがあるとすれば、それは何でもないということだ。存在しないともいえる」
「おれに名がなければ、おれという人はこの世にいない、ということになるのか?」
「いや、おまえはいるさ。博雅がいなくなるのだ」
『陰陽師1-騰虵-』(岡野玲子/白泉社)

名=シュという認識は『ゲド戦記』(Ursula K.Le Guin/岩波書店)においても描かれています。
モノの根本的な在りようを縛る、名。
名は体を表す。
名乗りは、存在の働きを自ら定義することです。かく在る、かく生きる、ということ挙げです。

『柳生暗殺帖』のおかげで五行関連の資料が増え、おもしろい記事も散見されるので、
「小次郎はどうして「風魔の小次郎」なのか?」
というファンでなければどうでもよさそうな「?」について観察してみました。
この問いかけに対する正解はないので、言葉遊びの一種とお考えくださってもかまいません。



一気(太極)から派生した二気(陰陽)による、
  • 天地同根
  • 天地往来
  • 天地交合
が地上に五気(木・火・土・金・水)を廻らせ、この五気の作用、循環が「五行」である、というのが陰陽五行思想です。中でも、
「相生」
木生火
火生土
土生金
金生水
水生木
「相剋(相勝)」
水剋火
火剋金
金剋木
木剋土
土剋水
の「理」はこの手の話にほぼ絡み、神社仏閣の境内に足を踏み入れれば、そこらじゅうが五行だらけ。
ところで、五行にはもうひとつ「理」があるのをご存知でしょうか。
それは「三合」です。
本を読むまで柳良も知らなかったのですが、森羅万象は生々流転、始まり(生)、さかんとなり(旺)、そして終わる(墓)ことで輪廻する、という法則です。
風の三合
言葉にすると「ほう、そうかい」で終わってしまうので、方位(空間)と季節(時間)を使って「木の三合」を図にしました。五行において風は「木気」なので、これは「風の三合」でもあります。数字は旧暦の月です。
『淮南子』曰く、木(風)は、

亥(十月)に生じ、
卯(二月)に旺んに、
未(六月)に死す。
三辰(三支)は皆木(風)なり。

この法則を利用した「風鎮め」「風封じ」「風送り」が日本の各地に残っていて、どれも大風の鎮静を図るものです。農耕にかかわる祈願だからでしょうか。
興味深いのが「風の三郎(※)」という風神の送り方。

カゼマツリ
風祭り。新潟県東蒲原郡東川村で、六月二十七日の行事。朝食前に部落中のものが村外れに集り、縄をなって高さ一尺位のサブロウ堂をつくり、お神酒をあげコウセンを供える。長野県北安曇郡の各村で、春彼岸の中日に行う風祭りは、藁人形に紙の衣服を着けさせて送るものである。
カゼノサブロウ
風の三郎。新潟・福島両村などには風の神をこの名で呼んでいるところがある。新潟県東蒲原郡太田村では、旧六月二十七日に風の三郎の祭りをする。朝早く村の入口に吹きとばされそうな小屋をつくる。それを通行人に打ちこわしてもらって風に吹きとばされたことにし、風の神に村を除けて通ってもらうことを祈る。(中略)隣の部落石畑でも、同様の小屋を三郎山という山の頂上につくる。この辺では風が吹くと子供達が「風の三郎さま、よそ吹いてたもれ」と声をそろえて唱える。
『綜合日本民俗語彙』巻三(『陰陽五行と日本の民俗』吉野裕子/人文書院)

歳時が六月なのは「木気の」に相当するからであって、「風の三郎」は「木の三合」の三番目である「未」の擬人化にほかならない、と筆者は書いています。
送ることで風を早く死に追いやり鎮める、というわけですね。
※『風の又三郎』(宮沢賢治)の背後にあるものは「新潟・東北地方に伝承されている風の三郎という風の神である」とのこと。



で、思ったわけです。
太郎、次郎、三郎でも一郎、二郎、三郎でも、「三郎」ならは「次郎」だろう、と。
卯は「三合」における「木気の旺」。方局(寅・卯・辰)においてもそうです。
もっとも壮んにして、風の中の風。
直撃をこうむると少々、いや、かなり騒々しく「一刻も早く通り過ぎてくれ」と祈る破目になりますが・・・。

『北条五代記』に登場する風魔一族の頭領、小太郎が有名なので、そのもじりで「小次郎」が生まれたのか、剣豪対決なら巌流島の宮本武蔵、佐々木小次郎からとってやれ、だったのか―――むしろ、そちらの確率が高いとは思います。
でも、ここにこういう「次郎」がいるのも悪くない。「小」がついているあたり、未熟で未完の大器を暗示しているようで最高です。

技に由来する忍の名もありますが、小次郎の場合は名づけ親がいるような気がします。
風魔の小次郎。
彼の本性は真名に秘められているのかもしれません。が、通り名もまたしっくりときます。
佳い名です。
2006年09月27日