『柳生暗殺帖』第17話 -平行線の正義-(2006年07月号)

長いです。
ひたすら文字だらけです。
滔々と書いていますが、それは無名を論破したいのではなく、飛鳥武蔵をなんとかしたいからです。“無”に憑かれた―――俺、今、いないことになっているんです―――男をこちらへ振り向かせる方法は?
お~い、戻ってこ~い。



その前に。
オナゴだ!
やっとお目見えした広目天ビルバークシャの得物は《孤月・八重桜》。
右眼は暗視スコープにもなるのかな?
技を掛け切ったその瞬間に最大の隙が生じることを、よく心得ていらっしゃる。
ほか、名の明らかになった暗器は、 ※01:密教では、護摩等に用いる安息香、鶏舌けいぜつ香、栴檀せんだん、丁子香、沈水香を指します。

14手。まだまだあるらしい。わきわきしますなあ。
ちなみに、「十六夜」は「不知火月」ともいい、「猶予いざよう」から出た、という説があります。
いつまでも去らぬ月は「ためらう」「迷う」の意。
また、十六夜薔薇はイバラの一種で、花は紅色八重、一方に欠所があるので「いざよい」の名を得た、と。
由利先生、凝りすぎ?
なんにせよ、吹雪がスカートを穿いていたことは朗報です。
火獄門で助っ人の借りを返しつつ、小次郎は純白を拝むのか、うっちゃっておいて水獄門か地獄門か。わきわき。

聖地でのことといい、伊達総司にはなんとなく、
「己の敵は誰なのか」
という課題がつきまとっているような気がします。
火ノ守の護剣は《緋炎剣》(※02)
はばきを除いて、《紅蓮剣》にそっくりです。やっぱり卒塔婆です。
経験を積んでいても、ひょっとすると小次郎よりも力押しな総司。
傭兵なら制服の下に着籠きごみでもして飛び道具に備えてほしいものですが、美しき殺し屋ヒットマンの間合の内で、「一匹狼の刺客」(JC5巻)はちっとカッコ悪いことになっていますねえ。
あれが死んだフリでなければ。
そろそろ、次なる秘技が待たれます。
あああ、またヲシデを翻訳するのか。めんどくさ。
※02:あれ、鞘に収まっている間は剣身が実体化していないのかも・・・抜いたらめらめら、収めたら空っぽ。『STAR WARS』のライトセーバーみたいに。遊んでみたい。

技といえば、小次郎の囮(デコイ)作戦が功を奏し、前線が空獄門からどこかへ移動しそう。
地哭蟲ヂナキムシ》が“秘剣”というのは小次郎の冗談だと思いますが。
超能力戦士サイキック・ソルジャー戦を修行したのは、4年よりも前でしょうか、竜魔が竜性になってからでしょうか。
その光景を想像すると、かなり楽しい。というか、笑える。
どうせ小次郎のことだから、傍から見るとまるで遊んでいるように見えたのに違いない。ははは。



さて、と。
少年漫画の読み方はさまざま。
どうも作者の「それを読んでほしい」という意図を感じるので、無謀にも真っ向から挑みます。

「こっちへ還ってねェんじゃねえかと思っていたよ」(小次郎)

・・・以降、雪野で決闘したがゆえに飛鳥武蔵の心を理解する小次郎が、思わず垂れたお説教。
言外に羯磨衆へ与する理由を問うた彼に対する武蔵の回答は、“無”。
“無”とはなにか。

《聖剣戦争》の終焉に立ち会った小次郎は、
「人も地も星も、やがて一切が“無”になる」(JC9巻)
という、いわば臨死体験をします。
武蔵も同じものを見て、「悟」った。
そうして選んだ正義が平行していたのは、“無”の解釈の違いによるものでしょう。
“無”を知り、ならばこの世に対してどう働きかけてゆくのか、つまり「限りある命の使い方」を自問し、出した答え(=正義)が二人にとっては平行線だった。今のところ、武蔵に歩み寄るつもりがない、という意味で。

おもしろいのは、二人とも「神アレルギー」なんだよね。
小次郎は、「在ったら在ったで、嫌いだね」というスタンス。
武蔵は「騙る」とまで云っているので、存在そのものを全否定。
・・・きっと、信じていたんだろうなあ、心のどこかで。悪魔に魂を売っても、妹はカミサマが救ってくれるって。ううう。

どうやら、武蔵に絵里奈ちゃんを転生させようという意思はないようです。
彼はいったい、なにをしたいのか?

「我が名もまた“無”なり。全てをこの闇に呑み込み、“無”に帰す者」

神に復讐するため、現行の「決まり事」(秩序)を破壊する。
「新しい世界」(秩序)を打ち立てようとする羯磨衆と、手段は一致した。手段だけは。
おそらく、武蔵には結末を見届けるつもりはない。
こうなるともう「世界と無理心中」という表現になってしまって、ほかに言葉を思いつきません。
愛する妹を黄泉還らせて、もう1度生を分かち合いたい、という望みの方がはるかにマシだった。なんてこった。
小次郎の、

「バカ野郎が・・・!!」

という科白せりふと見せた表情が、彼の気持ちをすべて物語っていて、最高に良い。
武蔵が小次郎の前に現れたのは、「足どめ」というより「最後に残されたこの世への執着」を小次郎に供養してほしかったからだ、とすら思えてしまう。
「生霊」だったけれど。
そんなデリバリーサービス、困るがな。
邂逅の場に触媒体質の神子が居合わせたことが、いずれ彼に救いをもたらすことを望みたいです。
とりあえず、武蔵は『正法眼蔵』を読め。



小次郎との決闘後、姿を消した武蔵はある寺院に身を寄せていました。
『風魔の小次郎』(JC5巻)に、その三門と、彼が妹を供養するために仏像を彫っていた方丈が見えます。
おそらく、瑞竜山太平興国南禅寺(※03)を資料として描かれているのでしょう。
※03:京都市左京区南禅寺福地町。観光地のど真ん中で《華悪崇》と小次郎達が大立ち回りをやらかした、というわけではありません。そんなことになったら超法規的措置がとられ、(なにができるのか、という点は置いて)自衛隊が出動したかもしれませんから。

南禅寺は禅宗、臨済宗南禅寺派の総本山です。
寺院建築は時代や宗派によって様式が似通うので、武蔵が禅寺に滞在していたことは間違いない。
それだ。
夭折した絵里奈ちゃんの冥福を祈りたい、という純粋な気持ちはもちろんですが、柳良は、彼がある疑問に対する回答を禅に求めていたのだと推測します。
禅宗は本尊を定めず、「己事究明」、すなわち徹底的に自己を見つめることを修行とします。
『正法眼蔵 現成公案の巻』
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。」
『『正法眼蔵』講義』(竹村牧男/大法輪閣)
その宗旨は武士に受け入れられ、鎌倉時代に浸透しました。
自己とは何か。
自己にはどのような意味があるのか。
自己の在り処はどこなのか。
想像に過ぎませんが、参禅したのかもしれない、書見に没頭したのかもしれない、小次郎が看破したごとく「生きるべき理由を失」いかけていた武蔵にとって、これらは生死を懸けた命題です。
少なくとも回答を得るまで、武蔵は《黄金剣》を手放すわけにはいかなかった。ただひとつ、残された心の拠りどころを。

ところが運命は待ってくれず、彼もまた《聖剣戦争》へ駆り立てられ、そして「すべて」だと信じたものを失ってしまう。
地上への帰還を一瞬でも願ったのかどうかはわかりません。ただ、気づいた時、彼の足は地を踏んでいた。
同じです。あの雪の日と。
どれほどあがこうと繰り返しだ、と思った瞬間に悟ったのか、武蔵。
自己とは。
自己の意味とは。
自己の在り処は。

“無”と。



量子力学には「不確定性原理」という法則があります。
ドイツの物理学者、W・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg)が1927年に提唱したもので、物質を観測しようとすると、位置と運動量を同時に、正確に決定することができないという原理です。
位置を観測すると運動量が、運動量を観測すると位置がいい加減になってしまう・・・つまり、観測者がどちらかを決定してやらないと正しい形が生まれない、とても困ったちゃんな原理だそうで。
柳良なりに平易な表現をすると、
「ヒトが見つめて初めて、対象はカタチを現す」
ということではないかと思います。
ええっ、視界に入る人や物は「見ていない時も存在している」のに?
その反論は体験的に正しい。でも、科学的に証明することは不可能です。なぜならば、「同時に見て、見ない」ことはできないからです。

「私が月を見ていない時、月はそこに存在しないと云うのかね?」(A.アインシュタイン)(※04)
「YES」(N.ボーア)(※05)
※04:Albert Einstein(1879-1955)。物理学者。
※05:Niels Bohr(1885-1962)。物理学者。

どうしてこの「観測者問題」を引き合いに出したのかというと、無名が“空”なんて概念を持ち出したからです。
そう来たか。ならば、こうだ。

「我がこころ、すでに“空”なり」

“空”で思い浮かぶのは「何も無い」というイメージ。それから、円形でも方形でもいい、奥行きのある空間。
『神統記』
「まず最初にカオスが生じた」
『ヘシオドス神統記』(廣川洋一訳/岩波文庫)
ギリシア神話の有名な下りです。
カオス(Χαοs)は混沌と訳されがちですが、ここでは秩序(Κοsμοs)で満たされる前の空っぽな状態、世界の始まりと解します。
この“空”は名を与えられていない、意味の決定されていない、満たされることを待っているニュートラルな存在です。
ただ、在るのみ。

無名は飛鳥武蔵から名を奪い、意味を奪った。
自己は“無”。
自己は“無”意味。
そうすることで、他者が武蔵へ投げかける意味、役割・・・干渉を断ち切った。
それでも、生きているからには心の動きを感じるし、肉体は厳然たる事実としてそこにある。それは、「神の名を騙る一人の者が創りだした、手前勝手な決まり事」による現象のひとつ、ということになってしまいます。
無名はすべての生死・因果を消滅させようとしているのではないでしょうか。
神を葬るため、インドラを利用して。
見つめるものも見つめられるものも無い(※06)、空間も時間も存在し得ない、カオス以前の状態へ。
自己に在り処“無”。
今度こそ、本当になにも無い。
※06:とすると、あの仮面は「自己と他者の視線を遮る」という意味でとても象徴的です。なんだか仮面で正義を主張しているよお・・・と感じていたのですが、だからって、だからって。

一人の男が無常の風を感じ、「我が望みは“無”」と思い定めた。
しかし、生きよう、世界に対して主体であろうとするかぎり、相手がどんなに悲痛な決意をかざそうと、自分も含めた親愛なる者をそう簡単に“無”へ帰させるわけにはいかない。
きっと、小次郎はそう考える。その護りたいものの中に「武蔵」もいる。



『正法眼蔵』は禅宗のひとつ、曹洞宗の祖・道元禅師の著書です。
「摩訶般若波羅蜜の巻」を開くと、「苦集滅道」に関する記述があります。
は生老病死(四苦)の苦しみといい、 と合わせて「四苦八苦」の諦(真理)。
は「苦」を集めるものがあるのだという諦(真理)。
は「苦」が滅することがあるのだという諦(真理)。
は菩提(ボーディ)の訳語で「悟り」のこと。「滅」を実現する諦(真理)。

この「四諦の法門」は、めてしまう迷いの因果をするを説いています。生きているかぎり苦しみはあるけれども、それを克服する方法もあるのだ、といったところでしょうか。
「滅道」があるから、「苦集」を肯定できる。
どうも、武蔵はこの「滅道」を放棄したらしい。

「それが、あなたたちの輪廻なのですよ」(JC5巻)

絶対的な存在(神)が個人の運命を支配している、と武蔵は感じた。
神を殺さなければ、輪廻から逃れることはできない。
それには、AとBが関係することで万物が生じる、という縁起を止めなければならない。
宇宙の熱的死。物理量(エントロピー)の限界。
ここでちょっと、『百億の昼と千億の夜』(光瀬 龍/ハヤカワ文庫)のイメージがダブったりしますが・・・。

そんなことをしたら、確かに「王道楽土」もくそもありません。
イーさんがどんなに暴れまくろうと、羯磨衆が積年の恨みを晴らそうと、世界そのものが“無”に帰してしまうのですから。
是音は無名の思惑を知っているのでしょうか? 狐と狸の化かし合いかもしれませんが、最後にしてやられたりしやせんか?
羯磨衆を焚きつけてインドラ復活のお膳立てを整えているのは、無名か? やつがラスボスか?

灰身滅智けしんめっち」といって、身と智を灰滅かいめつする、身も心も無くなった状態を表す言葉があるそうです。
輪廻を解脱した、とは云えるかもしれません。果たして、それは安らぎなのか。生まれなければ死ぬこともない、何も変わらない世界は、本当に命の目標としている世界なのか。
『正法眼蔵 現成公案の巻』
「さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷うめいの漢あり。」
『『正法眼蔵』講義』(竹村牧男/大法輪閣)
道を、命を深めていく人がいれば、抜け出すどころか、ますます迷いを深めていく人もいる。
無名の「我がこころ、すでに“空”なり」という発言は、自分はもう迷わない、と自己を規制したものとも受けとれます。
しかし、悟るとは、迷うことを止めることではないような気がします。
迷うことを恐れず大いに迷い、囚われず、そこから脱却して前へ進むことのできる、いわば「迷いの達人」であれたら。迷うことは、時に楽しいのだから。
そういう漢を知己として持つべきです、武蔵は。
常に流れていて、一瞬の「今」の連続が分明にはっきりしている、おおらかな友を。
近くにいるような気がするのですがねえ。
無名は、武蔵として小次郎に真情を吐露した。
そして、小次郎は彼の「バカ野郎」ぶりを愛しく思った。
仮面に遮られていない、唯一の縁起が竜虎の絆を保っている。

武蔵よ、道を見出せ! 門はすでに開かれているのだから。
2006年05月27日

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特に注釈のない文中の参考文献
姑獲鳥うぶめの夏』(京極夏彦/講談社文庫)
『ギリシア・ローマ神話辞典』(高津春繁/岩波書店)
『2013:シリウス革命』(半田広宣/たま出版)